2009年2月21日土曜日

まるで手に取るように映像が浮かびます。

「僕の自然王国」 Vol.01 藤本敏夫


南房総の里山をゆく
霧のような雨だ。六月の午後。南房総鴨川嶺岡の山中。山仕事の往き帰りだけで踏み固められた糸のような道を歩いている。水蒸気が外界の音を吸い取って、聞こえるのはただ、自分の足音だけだ。僕の体力では、杉木立の途切れる時と息の乱れる時はいつも同時で、それから十歩も行かぬうち、突然視界が開ける。六段に重なる棚田が花みずきの向こうに現われ、 がんこ山からの風が上の田から下の田へと吹き抜けてゆく。汗と共に理念も消える。風景は目から入って、網膜に写し出されているだけではなく、耳や鼻や皮膚をも通して、一瞬のうちに心を埋めつくすかのようだ。

田の奥は靄っているが、緩やかなカーブを描く畔には紫陽花が背を低くして群れ立ち、柔らかな稲の葉先が緑のさざ波のように、棚田一面を揺らしている。晴れた日には、遮るもののない大気の中を、太陽は矢のように突き抜けて膚を差すのだが、今は幾重もの湿潤のカーテンが引かれて、僕はまるで産衣に包まれているように感じた。